小松島市議会 2021-12-04 令和3年12月定例会議(第4日目) 本文
今,新型コロナウイルス感染症について,新規感染者数が全国的に落ち着きを見せる中,徳島県においても新規感染者が確認されない日が続くなど,落ち着いた状況が続いており,年末にかけて少し気の緩みも出てきているかとは思われますが,第6波の懸念や,新たな変異株,オミクロン株の出現により世界の緊張感が高まったことから,市政の優先課題として引き続き取り組んでいただけるということで,我々自身も警戒心,緊張感の下,感染拡大
今,新型コロナウイルス感染症について,新規感染者数が全国的に落ち着きを見せる中,徳島県においても新規感染者が確認されない日が続くなど,落ち着いた状況が続いており,年末にかけて少し気の緩みも出てきているかとは思われますが,第6波の懸念や,新たな変異株,オミクロン株の出現により世界の緊張感が高まったことから,市政の優先課題として引き続き取り組んでいただけるということで,我々自身も警戒心,緊張感の下,感染拡大
これまで,国内では,様々な変異株の出現のたびに猛威を振るってきたことから,本市におきましても,引き続き警戒心,緊張感を持って情報の把握に努めるとともに,制限緩和の方向性を踏まえつつ,感染再拡大を見据えたコロナ対策に,市政の最優先課題として,引き続き取り組んでまいります。 次に,新型コロナワクチン接種についてであります。
また、文献で猿とイノシシの生態を調べてみましたところ、猿は雌と子供を中心に群れをなして、決まった縄張の中を集団で周期的に行動し、味覚、聴覚、視覚は人間とほぼ同じで、記憶力は抜群、新しいものや状況、場所への警戒心は強いが、一旦慣れてしまえば大胆になり、一度人なれすると追っ払うのが難しくなる、イノシシも猿とほぼ同様で、繁殖力は猿よりも高いということであります。
しかし、これほどの巨大地震による揺れをみずから体験し、その恐怖を実感していたにもかかわらず、発生から18年もたちますと、日常生活においては記憶も日々疎くなり、警戒心も極めて薄まった状態となっております。このように人間は、日々新たな出来事が重なってくると過去の出来事は忘却し、社会的にも徐々に風化していくという習慣があるように思われます。
また、各自主防災組織の活動状況としましては、昨年の東日本大震災以降、各自主防災組織において防災、減災に対するさらなる強い関心と警戒心を持ち、市、県が行う防災講座や各自主防災組織が主体となる防災訓練等に積極的に取り組んでいただいているところでございます。
財政の持続性をめぐる市場の警戒心から、日本国債の利回りが突然はね上がるおそれがある、と警告したのでございます。日本の債務残高は、2011年度末に1,000兆円を超えると予測されています。 ギリシャに端を発しましたEUの経済危機及び金融危機では、イタリアの国債の利回りが7%を超え、ドイツの国債入札までが不調となるなど、EU圏内の国の財政の行き詰まりが経済や金融に大きな影響を与えております。
本市において、津波警報で予想される津波の高さが1メートルということが、住民の方に警戒心を起こすまでには至らなかったのではないか。また、津波到達まで時間があり、緊迫感がなかったのではないか。テレビ、ラジオ等の各地の情報から、大丈夫と判断されたのではないかなどが理由と考えております。
それと,子どもたちの安全対策について,実は私も防犯の一員として時々見回りに出ることがあるのですけども,例えば時間がなくてスーツのまま行くとか,あるいはふだんのままで見回りをやっておっても,子どもたちが決して,こちらから声をかけても,警戒心が強いということか,そのように学校で教えられておることと思いますけども,反応がない,物を言わない。
特に、ごみ処理施設の建設については、どこの住民も公害等の警戒心が高く、また関心も高い。いいかげんな話では、納得してくれない。したがって、これからのごみ行政は場所から始まって、ごみ処理にかかわるすべての問題点を計画段階より、まず地元住民に判断材料となる情報や資料を提供し、ともに考え、ともに決定してもらう組織をつくるべきであると言っておりました。
さらに、法務省の見解の中を見ましたら、1989年の地対協の意見具申を引用いたしまして、いわゆる確認糾弾行為というのは、行き過ぎ、人権への配慮に欠けたものとなる可能性を本来持っている、また、何が差別かということを民間運動団体が主観的な立場から恣意的に判断をし、抗議行動をほのめかしつつ詳細なことにも抗議することは、同和問題の言論について国民に警戒心を植えつけ、この問題に対する意見の表明を抑圧してしまっているとして
昭和61年の地対協意見具申でも、いわゆる確認糾弾行為は被害者集団によって行われるものであり、行き過ぎて被糾弾者の人権への配慮に欠けたものとなる可能性を本来持っている、また何が差別かということを民間運動団体が主観的な立場から恣意的に判断し、抗議行動の可能性をほのめかしつつ、ささいなことでも抗議することは、同和問題の言論について国民に警戒心を植えつけ、この問題に対する意見の表明を抑制してしまっていると問題視